どうでもいいですが、私は神社仏閣によく行くように、そういう宗教的なものが結構好きなんですよね。
とある魔術の禁書目録もそういう関係で結構好きだったりします。
何が好きかって…色々?
宗教で矛盾していることの一つはその宗教を信仰していない限り、その宗教の神に救われぬこと。
もう一つは無宗教、異教の人間はその宗教人において、人にあらずということ。
前者に関してはあたりまえじゃないかと考える人も多いでしょう。
何故信じられてもいない人間を助けなければならないのか。
本来ならそう考えます。
ですがキリスト教などでも明言している通り、“人はその神の名の下に平等”と言われます。
その神の名の下。
それは一体どの範囲なのか。
その神の名が知れ渡っているところにおいてか。
その神の名において信じられているものか。
その神の名を知っているものにおいてか。
多大な解釈が取れますね。
まぁそれ以前に神は人間は平等なる存在であるとよくいわれていますがね。
そのために日本においてキリスト教は認められなかったのですから。
何せ、お上のご威光は実はなかったー。なんてことになりますから。
故に人は平等。
福沢諭吉的に言うと、「神は人の上に人を作らず、また、人の下に人を作らず」というやつです。
あれ?福沢諭吉だったっけ?
まぁいいや。
このように人の平等が唱えられているということは、どのような神を信じようが、信じまいが、彼らと他の信者とは平等なのです。
しかし、神は信者しか救わない。
人は平等なのに何故信者しか救われぬのか…。
簡単に考えれば当たり前のことですが、”平等”の名の下に考えてみると些か矛盾を感じえない気もします。
つまりは信者以下は神の名において平等ではなく、同時に救う価値もないということなのですからね。
そして後者においては前者の解釈がそのまま使われます。
昔は異教狩り、魔女狩り等、神を信じぬものにおいては凄惨な悲劇が許されるものとしてきました。
特に半強制的に広められてきたキリスト教。
おもにカトリックが(確かではないが)その信仰を得るために各地に信仰を広めていきました。
信仰を得られなかった地域に関してはその地域に軍事介入を起こすほど強制的なものだったと言われています。
つまり、“神の教え”とやらを受け入れなかったものは人と見られないということです。
基本無宗教国家である日本は稀に、“無宗教の猿ども”と揶揄されることもあるようで。
平等
宗教においてはその定義は一体どうなっているのか。
なかなか興味の出るものです。
まぁ仏教が入ってきた日本は当初、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行けると考えた時期もあったらしいですがね。
宗教はそれそのものが力を持つ。
なんの力も持たないと考えがちな人間は、偶像崇拝を用いて勝手知ったる神を造りあげ信仰とし、信じられた宗教は、その信者により莫大な力と富を持ち、信者を用いてあらゆる威力を発揮できる。
宗教戦争や、クリミア戦争(だったと思う)がいい例で、宗教は時として戦争発起の手段にも用いられる。
弱きものを助けるために神がいるとするのならなぜに神は武器をとり敵を根絶やせというのか。
それを思わなかった信者の妄信も考えさせられるものです。
とまぁ、歪んだ興味の持ち方も持っております私。
純粋に神話、宗教がおもしろくて好きだということもあるんですが、こう言う疑問を考えるのもなかなか楽しいもので。
語らせたら長いので終わりますけどね。
ちなみに私は無宗教ですが、あらゆる神を信じています。
運命とか、霊とか、悪魔とか、天使とか、神とか、そういう偶像的なものもすべて信じています。
で?
それが何か私たちに生物的関係以外に何か影響をもたらすの?
信じていれば救われる?へー
的な信じかたですので結果として無宗教で信者ではないです。
霊が金縛りを起こすのも蚊が血を吸ってかゆくなるのと同じぐらいにしか思っていませんので。
ホラー映画などは全然だめですけどね。
ゴーストシップの鑑賞をかたくなに拒否してました。
これはこれ。あれはあれということで。
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